掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

個人的まとめ 2023年5月 上旬

 無意味なことを書いているのかもしれない。

ライブ

 2件ほどライブに参戦*1しました。普段配信サービスで聞く音楽と生で聞く音楽とでは随分と違うというのは経験がある人なら誰でも知るところだと思います。生で聞くとより「生きた音楽」として聞こえる、とでも言うんですかね? 多かれ少なかれ普段消費的に聞いている音源にはなかった風味を感じられるような気がします。個人的な感覚を誤解を恐れずに文字に落とすならば「息継ぎのタイミングを強制されるほどに秩序的な強烈な冷気」のようなものが音源に乗ってくるような感じ。比喩でしか上手く物を語れません。

 もちろんこういう感覚は人の数だけ種類があるし、説明の仕方も多種多様です。しかしながら人間というもの、感覚を共有する際には別の共感覚的な感覚を引用することしかできないように感じます。他者との共通の言語的な理解が存在する条件でしか自分の生々しい感覚を伝えることができない(しかしそれにはノイズが乗って伝わる)ならば、極限的には全く主観的な印象は自分の外に持ち出すことができないのかもしれない。印象というものを理解・共有できる形に落とし込もうと(それは言語化することと等価だが)した時点で初めに抱いた印象とは少し違ったものになるし、言語化し得ないような真に主観的な感覚は切り落とされてしまうような気がする。だとすると上に述べたライブの感想も、自分の直感とはズレたものになるし、その上そのことに対する自分の理解さえも(理解していると自分が思っている時点で)、本当に自分の脳が感じ取ったものからは随分少ない割合の表現になっているはず。言うならば我々の認知においては言語化できるもののみが存在すると言っても、過言ではないのかもしれない。

 ここに言語を学ぶ理由があるのでは? 人間の偏った認知の集合体たる文化を体感するためには、言語によってそれを行うしかない。それが母語であれ外国語であれ、自分の見える世界を、文字通りの意味で広げる、色づかせるために言語を学んでいる……?

 何言っているんだろ? でも、いずれにせよ、とても素晴らしいライブ*2でした!

オブジェクト

 ライブの際に初めて近くで見た、スモークの拡散装置です。

スモークの拡散装置

 これほどまで無意味そうなオブジェクトがあるだろうか! と思い写真を撮ってしまいました。扇風機の使用目的に涼しむ以外のものがあることを知って興奮しました。



 今回はこの辺で。

*1:なんでライブを戦に喩えるんでしょうね?

*2:カンザキイオリ2nd ONE-MAN LIVE「別れなど、少年少女に恐れなし」、および ヨルシカLIVE2023「月と猫のダンス」の2作