掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

4月上旬:過密

 予定というのは、非常に過密なタイミングとスカスカなタイミングが交互にやってくるもので、一様に分布することはまずあり得ない。今がその過密なときになっている。一年のときは比較的忙しく、二年の時は比較的スカスカだった。そして今年に大波が来ている。専門の科目が増えただけではなく、なんとなくアルバイトを増やしてしまって、余計に自らの首を絞めている。忙しい分には脳が余計なことを考えないから病まずに済むから良いが、同時に当たり前だが寝る時間が少なくなる。とはいえ一度家に帰ってきてしまうと体が完全にオフになってしまって活動をする気にならないから、外にいるだけ得なのかもしれない。よくわからない。忙しくて辛くなったらやめる。

 半年後に専攻を決める必要がある。大学に入った時にはただ漠然と代数をやりたいなと思っていたのだが、数学科に行く人間の大半は代数に興味があるという決まりきった事実に気づいた(大抵数学が好きな人間は若かったころに何かそのきっかけがあったわけで、そのあたりに理解できる数学は必然的に代数に近くなりがちである)。自分の力量を考えるとそんな大人数がいるところで勝ち抜けるわけがないし、他に代数という分野のモチベーションに共感をあまり覚えなくなってきたのもあって、専攻を真面目に考えなおなさないといけなくなった。色々調べるにつれて幾何と解析の中間をやりたいなと思うように(今のところは)なった。

 問題は実際にそこにあるものが望むものではないのかもしれないのに、漠然と「幾何をやりたいかも」と思っていることである。こういう判断を強いられるときは失敗しないようにしないようにと念を押しながらあれこれ考えるものだが、振り返ってみるとあの時こうしておけば、となるのが常である。どの選択をしても一人生であると言われると余計に不安が煽られる。こういう判断をする立場にあることを楽しんでいたい。

3月下旬:コミュニケーション

人見知り

 多分普段の月より人と関わることが多かったような気がする。気がついたら非常に悪化していた人見知りもあり、表面上ではヘラヘラしていても内心困憊しながら話していたような気がする。人と話しているときにどのタイミングで疲れるのかがよくわかっていない。「この人話しやすいな〜」って思う人以外はどこかしかボトルネックがあって、話題が合わない(合わせる気力がない?)、なんとなくこちらが一方的に話している気分になる、なんか話のペースが合わない気がする、とか。このうち真ん中にある「一方的に話している気分になる」が最近多い。極端なのは何を話しても「へ〜」とか「そっか〜」とかだけ返ってきて終わりというケース。興味がないか尋ねるとないわけではないと返ってくるけど返答に興味のなさが滲み出ている。もちろん相手が興味を持ち得ない話をずっとしている方が問題なのかもしれないのだが。

 映画を頻繁にみていると脳がそれに慣れて頭のリソースを割かなくなって、惰性で見ている感じがし始める。多分それと同じで、相手の話を聞くときに惰性で聞いているんだと思う。相手の話を表層的に聞いて、それっぽい返答をすることに慣れて、いつしかそれが「ちゃんと話を聞く」ことにすり替わる。人間様々なので、そういう会話をする人がいるのは全く構わないと思う。問題は自分が相手に「ちゃんとした」返答を求めていて、その求める対応が出てこないと色々頑張ろうとして空回りして疲れることだ。もっと雑に言えば自分が会話というものにナーバスになりすぎているのが問題。その人が一回しか話さないような間柄だったらいいが、コンスタントに話すような間柄だと会話するたびになんか申し訳ない気持ちになるし、自分も疲れる。どうにかならないものか。

SNS

 SNSが統一されてないのが不便だ。LINEがメインに使われてるとは思うが、Instagramでしか連絡を取らない人もいるし、Discordだと早く連絡がつく人もいる。この辺りを全部統一したい。いくつかのアプリケーション上のDMを一画面で管理できるようなオープンソースがあったらいいのに。今時連絡先交換するとき何を交換するのかもわからない。色々不便だ。

3月上旬:規範

 芳しくない成績が返却されて、嫌な気持ちになった。できなかった言い訳を考えるのだけは一丁前で、それに脳を使っているのを実感する。嘆いてもしょうがないから次頑張ろうという気持ちになれているのは少し進歩かもしれない。現実逃避かもしれない。いずれにせよ悪い点を取ったのが悔やまれる。色々遊びすぎた。

 晴れてTwitterのアカウントを消した。長い間ずっと思っていたことだが、アカデミー賞関連のツイートがトレンドに横行して、人の嫌なところをまじまじと見せつけられたことをきっかけにすっきりとやめることができた。きっかけは大事。勉強をしようしようと言う割に何もしないのも、きっかけがないのが問題なのだと思う。でもないものはないからね。何かを始めることと継続することはどんなことについても難しい気がする。

 高校の同窓会があった。久しぶりに先生方と会って、いい経験になった。数学の先生と少し話して、気長にやってください、いつか自分がそれなりに頑張ったんだなと実感する日が来るはずです、と言われた。こういうアドバイスにありがちなことだが、人生の経験者が人生って大抵こうなります、みたいにいうのを真っ直ぐ素直に盲信的に受け取ることができない。もっと単純に人の言うことを飲み込むことができたらなあと思った。

 最近だが、自分が「人見知り」であることを実感した。自分が不安がっていた症状に名前がついて少し落ち着いた気分である。

2月下旬:おまけ

 慣れというのは恐ろしいもので、初めどんなに重荷に感じていたことでも、いつしか負担に感じなくなる。映画を多く見るようになってから思うことだが、初め映画を一本見るだけでもかなり疲労感を感じたのに、今長めの作品を見てもなんとなく惰性で見ることができてしまって、映画を一本見たな〜と思うだけで頭を使っていない感じがすることが多くなった。堕落した生活を一日するだけでも体がそちらの方にどんどん傾いていって、努力なしに生活習慣を台無しにしてしまう。普段の生活の中にいかに自分が(無理をして)適応しているかを実感する。

 年が明けた時には気づかなかったが、この一年は普通より少しだけ長いらしい。気づいた頃にはそのおまけも通り過ぎてしまって、三月である。この特別感のなさは何だ。元日は毎年来るのに盛大に祝われて、2/29は四年に一回くらいしか来ないのにほとんど何もせずに通過する。Amazonセールでもしてくれてもいいじゃないか。何か祝日にかこつけて実利的な利益を得るイベントを欲しているだけだが。

2月上旬:映画館

 テストが終了して、晴れて長い暇のど真ん中に放り出された。ただぼんやりしながら惰眠を貪るのは効率的にも精神的にも不健全なので、今日何をしたか、明日何をしたいか、を軽くつけるメモを作った。

 『哀れなるものたち』を見た。作品自体は少し過激だったが色々なところに人間の不安定さ・自己中さ・理不尽さが散りばめられていたように思う。見て良かった。

 劇場で見たとき観客が自分含めて四人しかいなかった。近頃はサブスクサービスで映画を見ることが増えたし、YouTubeでShortsが流行るくらいだから短く短く情報を伝える動きが加速しているのかもしれない。

 いつか一人しかいない映画館で涙を流してみたいと思った。

1月下旬:フラット

 見たい映画がある時にその映画のタイトルを検索欄に入れると、どのサービスで視聴できるかという欄より上に必要ない(そしてたまにネタバレを含むことすらある)サジェストが出てくる。これは映画のタイトルに限ったことではないが、「やばい」みたいなサジェストが出てくるたびにうんざりする。情報量が増えない検索ワードをサジェストしないでほしい。

 二次的な情報に印象を操作されることは良くないと長く思っているが、それを完全に遮断する方法がないのがなんとも憎い。世間の評判がいいとか悪いとかそれだけでも印象が変わってしまうし、過剰なキャッチコピーをつける商業広告に唆されて映画を見てもそれが本当に自分の意思なのかわからなくなる。

 作品を鑑賞するときに、その作者に還元したいという気持ちがある。作者が想定した作品を何の偏見も無しに作者の想定通りに鑑賞することもその一環に入ると思っている。しかしそれがそのままの形で我々の目に入ってくる例は稀で、多かれ少なかれ他者による印象操作のノイズが乗って伝わってくる。ノイズを作品の本質だと見誤ってその作品の印象を語っている例があまりに多い気がする。作品の価値を商業的な測量に隷属させるな!

1月上旬:体調不良

 久しぶりに発熱して、医療機関のお世話になった。コロナにかかったのはこれが初めてだったが味覚に支障が出なくてよかった。問題は喉の痛みがあんまりひかないことで、これが残り続ける間は色々控えたほうがいいのかもしれない。

 「熱を出した時に見る夢」っていうのがあるが、あれを久しぶりに見た。自分は毛布にくるまって寝ようとしていたのだが、TFTみたいなバトルが自分の上の毛布の上で開催されていて、自分が寝返りを打つたびに別のゲームが始まっているような感じだった気がする。この夢の何が特別だったかというと現実との境目が薄いことである。自室の天井もくっきり見えていたし、毛布を蹴飛ばす感覚も残っていた。

 脳内文化資本向上委員会の一環で、『インセプション』を観た。夢を見るときの「突拍子のなさ」がうまく表現されていて、そんなこと絶対にないだろって思うようなことをなぜか信じずにはいられない状況は映画のカットの切り替わりに似ているのかもと思った。

 カレンダーを見て試験が近いことを実感する。これも夢で覚めるなら良いのだが。