掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

近況

 お久しぶりです.

 野球を見ることが数少ない趣味の一つとして盤石になってきているのに,シーズンオフ間近になってきてしまって悲しい.同年代の選手を応援して,打てたら上機嫌に,打てなかったら不機嫌になる,そういう一喜一憂を繰り返して,自分の変わり映えのしない日常から目を背けている.これを書いている段階では日本シリーズでベイスターズが2連敗している.今日の試合から一試合でも勝ってくれることを望むばかりである(追記:4連敗してシリーズが終わった.無念).

 数学はというと,奨学金の規定でおそらく博士課程に進むという感じにはなってしまっている.分野をB4のときから結構変えたので,知らないことしかなくて大変である.AIはなんでも知っていて(あるいは知っているように見えて),しかもどれだけ初等的な質問も嫌な顔をせずに答えてくれる.よき時代である.あと30年もすればAIが数学者の仕事の大半を肩代わりしていると思う.私が生きている間にどこまで行けるのだろう? 楽しみである.

 あとはクイズが趣味のもう一つの柱になっている.クイズは答えるのも楽しいが,作るのも楽しい.ただ頻繁に出されるクイズをすぐ押してすぐ答えるというタイプのクイズは,ただの反射神経テストみたいになって楽しくない.前フリに工夫があるとか,生活の中で目にする機会があるものなど,単なる一問一答形式の問題ではなく,生きた知識を問うクイズの方が圧倒的に楽しい.でもクイズ界隈はその「反射神経テスト」が人気である背景も確かにあり(そしてそのタイプの人に反射神経ですよねとかをいうと嫌な顔をされるが),そしてその類の問題の方が作成コストが軽いというのもあり,自分が求めているクイズをやる場所がそこまで多くないのが悲しい.「みんはや」ではたまに開かれる良質な部屋を見逃さないのが大事になってしまっている.

「美しい」ってなんだろうと思っていた話

 小学校ではたくさんのことを習う。右がどっちで、左がどっちか。漢字をどのように書いて、何と読むか。それなりに真面目に先生の話を聞いていたから、常識と呼ばれるものは全部知っているものだと思い込んでいた。ある程度成長して数学をするようになった。数学が好きになった。数学の本を読むと、難しい問題に信じられないほどスマートな解法が書いてあったりする。毎度マジシャンに騙されたような気分になる。

 そういうクリーンな証明を「美しい」と言う人間がいる。これがどうにも腑に落ちなかった。もっというと生まれてこの方「美しい」と感じたことがないことに気づいた。もちろん「美しい」という感情が主観的であって、他人から「かくかくしかじかな時にあなたに生じた感情が『美しい』ということです」と教わるものではないことは承知していた。辞書を引いて語義の通り「色・形・音などの調和がとれていて快く感じられる」タイミングを見計らって「美しい」と口走ることもできるが、心から納得していない言葉を使って自分の感情を表現しようとする行為そのものが馬鹿げている。

 「美しい」という感情の同定が済んでいる人がどのくらいの割合でいるのかはわからないが、パッとしないまま平然と大学院に入学して、夏になった。地元の花火大会を見に行くことになった。花火大会に限らないと思うが、夜祭の雰囲気は異様な感じがする。地元の花火大会は河川敷の近くにある小さな神社の一帯で催される。普段閑散としている場所に人が集まって、徐々に暗くなる中屋台だけは煌々としている。森見登美彦作品の夜祭のイメージに完全に引っ張られて、暗くなった参道の奥の人気のない屋台で、人ならざるものが胡散臭い格好をして油を売っているのではないかとか思いを膨らませていた。

 屋台で買った全く味のしないたこ焼きを食べながら、花火を見ていた。中くらいの花火がたくさん上がるうちに感覚が慣れて、花火ってやっぱり綺麗だなとか、コピー用紙のような薄い感想を量産し始める。暑いとかそういう周りの不快感が徐々に鼻につくようになってくる。時間を確認する。あと何分あるかを計算する。周りを飛んでいる虫が気になり始める。

 感動が徐々に減衰しつつあった中、遠くからアナウンスが聞こえる。響きすぎて内容は聞き取れないが、「三尺玉」の言葉が断片的に聞こえた。なるほどこれは見どころだと軽い気持ちで興味を戻す。しばらくして『ツァラトゥストラかく語りき』の序奏が流される。まず大きめの花火がいくつか曲に合わせて打ち上がる。『2001年宇宙の旅』でキューブリックが使ってたよなとか、これはシュトラウスの作曲だとか、そういう愚にもつかないことを思い浮かべながら流れていると、曲は佳境へ徐々に歩を進め、とうとう最後の「ド」の音で三尺玉の特大な一発が打ち上げられた。

 三尺の花火の玉は身にまとわせた小さい花火を分裂させつつ上昇していき、打ち上がっていく軌跡の線が消えた少し後に弾けた。金色の光が放射状に勢いよく伸びて、少し後に大轟音が押し寄せる。噴き出した光の線は勢いを失って重力に流されるまま下に垂れ下がっていく。しばらく垂れ下がった後に垂れた穂の先端がパラパラと光る。火薬がパラパラと燃え尽きる音がする。柳の形に綺麗に垂れ下がった光は、やがて夜の闇に呑まれていく。景色が元の夜空に戻ると、花火が弾けた場所に煙が残っているのが見える。見物客の拍手や喋り声が聞こえる。

 綺麗とか大きいとか、そういう感情が出てくることがなく、ただただ圧倒されていた。心が震える。泣きそうになる。自分の存在が不安になる。打ち上がってからしばらくは口を開けて弱々しい声を漏らすか、ため息をつくことしかできなかった。この感情は自分がこれまで経験した言葉では言い尽くせない、言おうとすると軽薄で安っぽく成り下がる。そうして、気づくのである。

 これが「美しい」ということだ。

 自分が認知していなかった感情を強烈に揺さぶられる体験を通して、心の奥底から納得した。「感想云々より前に、心が揺さぶられる感じがする」ことが、少なくとも、「美しい」という言葉に関する、自分が最も腑に落ちる解釈だ。

 花火大会は自分の感動をよそにプログラム通りに進んでいく。普通の花火がしばらく打ち上げられ続ける。夜の闇に咲く花の輪を見ながら、自分の解釈を確かめる。前に見た白内障のモネが描いた橋の絵も、美しかったのだ。森見登美彦『恋文の技術』も、萩原朔太郎『さびしい人格』も、美しかったのだ。全て合点がいく。感情に名前がついた感動を噛み締めながら、淡々と打ち上げられる花火を見る。綺麗だ。

 花火大会のトリを飾るスターマインは、Superfly『Beautiful』に合わせて打ち上げられた。この曲を前に聞いたときにうっすら目頭が熱くなったことを思い出した。歌の持っているパワーとやらはすげえなあといい加減に考えて自分を納得させていたが、違う。この曲は、タイトルの通り「美しい」のだ。歌詞・歌唱・旋律その全てが調和している。

 スターマインは河川敷を明るく照らしながら、一つ一つ散っていく。越智志帆の歌唱を最大限に引き立てるサビの展開と、その後に続く力強いアウトロが花火大会の終わりを予感させる。音質が良いとはいえないスピーカーから流れてくる『Beautiful』は、音質とは無関係に心を揺らしに揺らした。曲が今終わるというタイミングで、二発目の三尺玉が打ち上げられる。打ち上げられる軌跡に撒かれる小さい花火。軌跡が消えて、光が溢れ出す。無音のち大轟音。光の枝が垂れ下がる。散り際にキラキラと輝く。

 美しい。

 心を思い切りぶん殴られたような、そんな動揺が押し寄せる。見物客が帰路につく音が徐々に耳に入りだしたが、夜空に微かに見える破裂の後から、目が離せなかった。数秒前に見た美しい光景を忘れまいと同じ場所を眺めるが、夜空があるだけである。脳裏に刻まれた金色の花は、何度思い返しても美しい。「美しい」という言葉に強烈に焼き付けられた巨大な光の花の印象が、今も念頭を去らない。


 短めに日記のようなものをつけようと思っていたら、思いの外筆が乗ってしまって、大長文になってしまった。それほどの感動だったのだということがわずかにでも伝わったのであれば、光栄である。

ヴァニタス

 お久しぶりです.

 どうせ当たるはずのない奨学金の書類をたらたら書いていたら日が過ぎていた.自分がどう考えているのかを思い詰めて文章に出力しようとしても,自分の中には空虚があるだけで,だんだん病み始める.この趣旨の文言を前にも書いたかもしれない.でも大事なことなので,何回でも書く.書類を書くのは辛い.そのうち書く(であろう)エントリーシートにも,自分の表層的なことを並べた後に,余白を埋めるための搾りかす的駄文を書き付けることになるのだと思う.その搾りかすを見て面接官が「味気がない」と言う.書類審査で落とされる.無職になる.ハローワークもお手上げな廃人が出来上がる.借金をする.賭ける.負ける.破産.お先真っ暗にしか感じられない.

 でも,楽しいこともある.代数幾何が嫌で逃げたのに,代数幾何をやる必要が出てきた.新しくやるべきことがあればそれを考えれば気が紛れるし,新しいことがわかるようになるのは楽しいので,差し当たっては病まなそうである.院生万歳.こういう短期的な楽観的な視点しか持てないのも,学生のご身分の特権だと思う.

 Kindleのストアを眺めていると,読みたいな〜と思う本が50%オフで売られているのが目に入り,つい買ってしまう.『三体』5冊あるうちの2冊はまだ読み終わっていないのに,つい別の小説を買ってしまう.ネットでも積読している.

ここにいてはいけない

 知り合いが引っ越した.いい加減早く地元を出るべきだなと思いつつも,きっかけを持つことができないまま今に至る.都内から帰る時に,毎度「この電車に乗っている時間をもう少し自分のために使えないものか」と思う.有意義な時間の使い方でなくてもいい.電車に詰め込まれるストレスを避けたい.最近は電子書籍で本を読むことが多いが,ほぼ毎日「通学の時間」という訳のわからないコストが生じていることに対する怒りを抑えることができない.

 地元は嫌いだし,地元にとどまっている自分も嫌いだし,地元から電車を乗る時間も,あるいは電車で地元に帰ってくる時間も,その全てに腹が立つ.大学院生という身分に甘んじていながら,自分のやることなすことのことごとくに腹を立てて,周りと自分を比較して劣等感を抱くことしかできない自分にも腹が立つ.数学科の院生は大抵メンタルをやられる,と言っているのを聞くけど,これもその一端なのかもしれない.一旦片っ端からインターンに申し込んで心を折ってみてもいいのかもしれない.

 最近,塊根植物を買った.日に当てると,葉っぱが伸びてくる.そのインタラクションが,なんとも言えない幸福感を与えてくれる.おすすめです.

 YouTubeで塊根植物の剪定の動画を見ると,そんなに切っても大丈夫なのか,という状態から力強く芽を出す様子を見ることができる.うちにお迎えした子もそのポテンシャルがあるのかもしれないので,そのレジリエンスをどのように獲得するのがいいのかという相談をしている.返答は無言である.自分の力強さを参考にしろと無言で教えてくれている.

波がある

 駄文です.

 最近不調である.不調といっても長続きする停滞型の不調なのではなくて,「脆弱」と言った方が正しい気がする.脆いのである.ニュースを見ていると戦争をしていて,ネットサーフィンをしているとすごく裕福な人の自慢げな投稿がサジェストされる.そういう情報は一回見ただけではほんのかすり傷で済むのだが,複数回見ていると,あるいは夜の深い時間に見ると,加速度的にダメージの量が増える.かくしてあえなく病む.これはいつまで続くのだろうか?

 そのうち研究集会があって,何日かあまり親しくない人と場所を共有する羽目になる.自分はめっぽう内向的な人間で,毎日1時間くらいは最低でも自分だけの時間を確保しておきたいと思っているから,この集会は非常に不安である.高校生の時に(あまり馴染んでいない状態で)数学研究部の合宿なるものに行ったのだが,死ぬほど辛かったことを覚えている.いても楽しくないし,一人の時間もない.その経験と集会がオーバーラップして,メンタルを攻撃してくる.

 森見登美彦『恋文の技術』を読んだ.二回目.いい本は何回読んでもいい本であることを学んだ.Amazonでセールをしていたので森見登美彦『夜行』を買った.現実のことを考えずにいられる時間を大事にしたい.

形骸化

 コミュニケーションは,本来自分の考えていることを相手に伝えるという,コミュニケーションという目的そのもので発展していったものだと思う.それが今時はSNSができたせいで,コミュニケーションという目的よりも返信の速さとか,「返信した」という既成事実とか,そういう内容以外の部分が重視されるようになって,相対的にかれこれ深く考えることなく適当に返事をする,ということが多くなった.例えば,相手の考えに「わかる」と一言だけ返すというのはよくあると思う.これは不親切だと思う.同意するにしてもどのあたりに深く同意するとか,この辺は少し同意できないとか,そういうバリエーションが存在するはずなのに,それを抹殺して,あなたのアイデアに一様に同意しています,というのはいい加減すぎると思う.もちろん相手がこちらと会話することにあまり前向きでなかったら,それは仕方ないとは思うが.

 会話を維持するために会話をして,本来あった意思の疎通という目的が失われた.Twitterとかでも,大半の人はリプライなんかしなくて,適当なリアクションをしてスクロールして終わりである.流行りに乗っているという自覚が大事なのであって,そこには感情の機微なんか考えるゆとりなんかなくて,二元論でいいか悪いか決めて,指を動かして,それを自分の思いとして上書き保存している.とりあえずリアクションをして,そうするといつしか良いか悪いかということにしか頭を使えなくなって,その理由を考えることもなくなる.何となく自分が好きなものを良いと思い込んで,そうでないものを悪いと決めつけて拒絶する.

 変わるがわる出現する新しい概念を受け入れられない自分がいる自覚があるが,新しい概念を理解しようという歩み寄りを面倒くさがり始めたら終わりだと思っている.色々考えたことを自分なりに整理するためにも,このブログを書いている.

 この文章は「わかる」というLINEの短い返信を目にした時に,心に生じた違和感が発端になっている.

卒業して,進学する

 卒業式に出た.午前中の,いくつかの学部をまとめてやるフェスみたいな卒業式は,出る価値が一切なかった.自分が大学に思い入れがないのに加えて,なんというか,ありふれていて,当たり障りのないことばかり喋っていてつまらなかった.一般人も視聴できる環境にあったから仕方ない部分もあるのだと思う.自分の大学に歌があることをその場で初めて知った.

 翻って,午後の学位記授与式は,忖度のない話(この大学は改革が失敗し続けている,とか)で,非常に好感を持てるスピーチだった.数学科は似たような感性の人間が集まるっぽいから,スピーチがいいと思った,というのは至極当然な感想ではある.その後学部が寿司を出してくれて,タダで飯だの酒だの飲み食いできたのはもっと良かった.修士以降は午前中のやつは出なくてもいいのかもな,と思った.家族がうるさいと思うが.

 自分がつく教授にも面談してもらった.数学科にはコアタイムが(多分基本的に)ないから,知り合いの実験系の人と比べて圧倒的に気楽だなとは思った.M2の夏までに自分の課題が見つかれば上出来じゃないですか,と言われたので,それより早く課題を見つけてやりたいと思った.M1は死ぬ気で勉強する気でいる.でもそれとは別に,M2で卒業するならもう就活を始めないとまずいらしいということもなんとなく言われているようで,うんざりしている.

 自分はD進かなとかうっすら思っていたところで,将来結婚することがあるとして,そしてそのためには安定した職業についていることが前提であるとするなら,D進という選択肢はあまりいい選択ではないのでは,という懸念がカットインしてきて,かなり意気消沈している.自分が死ぬ時に後悔しないような生き方をしたいと心がけてきたが,行くも地獄,戻るも地獄の分岐点に立っているような気分になっている.

 色々頑張ります.