掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

いや、いじめてるわけじゃないんですよ

 逆言法というレトリックがある。言葉に出していることと行動とを一致させないような手法のことで、前置きに「自慢じゃないけど」と付け加えるとか、あるいは末尾に「とは口が裂けても言いません」と言うとか。日常生活でもごくたまに耳にすることがある?

 挙手した学生の一人を指名して黒板に問題を解説させるというありふれた形式の授業がある。この間それで一人が指名されて、解説をし始めた……のは良かったのだが、一通り解説を終わらせる前に教授がちょっと待ってくださいと割って入り、ここがいけませんねここはこう説明すべきです板書するときはこうしてくださいねという助言を板書一行ごとに発言し、しまいにはその一人だけで50分近く時間がかかっていた。

 長々とした教授の説教じみた主張の最中に突如放り込まれたのが表題の「いや、いじめてるわけじゃないんですよ」の文言である。これがなんとなく引っかかっている。

 夏休みの宿題をしなかった時の典型的な言い訳とされる「宿題を家に忘れました」というのは、自分は宿題をしなかったという罪を犯したのと似た状態にあるが、それとは違う、自分は宿題をちゃんとしたのだが家に忘れただけなのだ、という理屈で自分の罪を軽くしようとしている。真正面から受けるべき叱責を、目先の利益にかえて少しでも免れようとするのである。宿題をしないことは別に大したことではない、自分がすべきことをしないと後からつけが回ることを学べれば良いのだから。それを理解してくだらん言い訳をせずに「やりませんでした」と言う方がむしろ好感が持てる。

 この教授の発言も、その言い訳と似ているような気がする。自分の行動は学生にあれこれ言いがかりをつけて攻撃する悪い上司に似た部分があるが、それとは断じて違う、「教育的」なコミュニケーションだ、みたいな主張をしているのだと思うが、逃げ道を作っていることには変わりはない。人を攻撃している可能性があることを「自分は攻撃するつもりはない」と受け手の感情をよそにして済ませてしまうのはいかがなものだろうか? それだと受け手が傷を負っていたときの配慮をせずに放置することにならないだろうか?

 相互に理解を共有しながら議論を建設していく営みは大事であり、その中で人格攻撃などノイズになるものは取り除いて互いの論旨を尊重すべきだという考えは聞き飽きるほど浸透してきている。しかしそれとは別に自分のジェスチャーや語調、立場などが相手に何か良からぬ効果を与えていないかに注意しながら議論する必要があるように思う。人間というものは言葉の意味だけを抜き出して議論ができるほど単純でないことなど、言うまでも無い。