掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

10月上旬:役割

 上司と喋る時、家族と喋る時、友達と喋る時、どんな時においても、基本的には「このように振る舞うのが相応しい」と言う暗黙の建前のようなものがあって、それにしたがって話すのがコミュニケーションの正しい在り方である。上司にタメ口を聞いたら何か言われるし、あるいは家族に仰々しい敬語を使って話したとしても何か言われるだろう。この「建前」が自分を規定しているのではないかと思い始めた。

 教授に向かって何か話すときも、学生として期待される行動を多分脳が理解していて、そのモードに入って行動しているような気分になる。そういう「建前」が存在するコミュニケーションならそれなりに自然に振る舞える。その逆も然りで、相手に何を求められているのかがわからない状態になると、途端に何もできなくなる。知り合いでない学生に話しかけるのができないのも、似たようなことに起因すると思う。別に今のままでも困っていないし、相手も多分自分に何かを求めていない。もし求めていれば相手側からこちらに話しかけてくるはずだ、相手に話しかけられればこちらが何をすべきかなんとなく察することができる。その点で自分から相手に話しかけることに理由が見つけられないのである(あるいは見つからない言い訳をでっち上げている)。

 人と話すことが相対的に少なくなって、偏った思考回路に振り回されることが増えた。人と話すことが自律神経の安定に必要、みたいな謳い文句が目に留まって、今まではなんとも思わなかったのだろうが、この広告に全部の責任を押し付けてやりたいと思った。人との関わりを自分から絶っておいて、それでも人との関わりを求めるという、自己矛盾である。