掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

個人的まとめ 2023年6月 上旬

 元気でやってます。

 人間の口腔内にある、味覚を感じ取る器官を何と呼びますか? 日本語では「シタ」と呼ぶ場合と「ベロ」と呼ぶケースが大部分のようです*1。個人的には「ベロ」と呼ぶのですが、これに関する不満があります。

 「シタ」と発音する方を「標準的」である、という主張を結構見かけます。このほかにも漢字で「舌」と書くとき「シタ」とは読んでいいことになっているのに「ベロ」とは読んではいけないことになっていますが、これに全く納得がいかない。私が母語として日本語を習得するにあたって味覚を感じる器官を「ベロ」と学習して、「舌」という感じが表すものがそれなら、少なくとも私にとってそれは「ベロ」とよんでしかるべきなものなのです。それなのにネットでは「ベロ」という言葉について「子供っぽい」イメージがある、とか書いてあって、個人的には「シタ」という言葉が逆にフォーマルに感じられるのだが、と思う*2ものの、そのような意見はネットではすでに淘汰されているようです。

 いっそのこと「シタ」と発音することにしましょうかね。でもそんなこと、べろを噛み切ってもしないと思います。

モクレン

 夏井先生とか朝ドラとかに感化されて、植物の季語に興味が出てきました。ジャパンナレッジで歳時記を眺めるのですが、やっぱり字面だけ見ても当たり前ながらどのような植物なのか実感が湧きません。その知識の穴をどうにかして埋めたいと最近思い始めました。

 カメラ一つ持って植物園巡りしてみたいなとも思うのですが、もっと手っ取り早く身近な場所に生えている植物の名前を調べることから始めようとも思っています。綺麗な花が咲いているとこの花が何なのか気になる、そういう素直なモチベーションを動機づけにして少しずつ覚えていければいいなと考えています。

 みたいな話の流れで祖母に色々聞いていて、モクレンの話になった時に「昔は馬のべろと言ったんだけどね〜」みたいなことを言っていて、調べてみたところなかなかローカルな単語のようでした。特に紫というかちょっと桃色っぽいモクレンのことを指すみたいです。僕が死ぬ頃にはきっとこの語彙は消えてしまっているのでここに記録しておきます。

電車の窓

 電車の窓越しには、外の景色が見えます。窓が開いていると、そこから直接外の景色が見えます。その景色が好きです。電車に乗っている時には「電車に乗っている」ことだけが意識されて、「空間的な移動」への意識が薄れるように感じます。電車の同じ位置に座るなり立つなりしていると、そこに留まっている印象が強いというか、電車という切り出された空間の中で静止しているというか、そのような印象を覚えます。

 窓の外の景色を直接見ると、自分がいる空間が電車の外と連続的につながっていることを実感できるような気がします。自分は同じところに立っているような気分でいるけど、電車という切り抜かれた閉鎖的な空間は実際には空間を明確に移動しながら走行していて、それゆえ自分が立っているこの場所もちゃんと移動している、自分が移動していることを確認できる……みたいな感じです。うまく言葉にできませんね、語彙が足りません。

 当たり前に感じていた物の捉え方の中に「気づき」があるとちょっとファンタジックに感じる経験は結構あるように感じます。月だって、月を単にみている時はただの欠けた円にしか思わないのに、これが地球を回っていて、今見ている景色も地球の外側のものを見ているのだ、と一度思ってみると何となく不思議に感じる……みたいな。ゲシュタルト崩壊に似ている現象なのかもしれません(あるいはこれもゲシュタルト崩壊の一種?)。

例文

 フランス語の辞典を引いて、以下の例文に遭遇しました。

Il ne casse dire qu'il s'est trompé de chemin dans la vie. (ロベール仏和大辞典より)

 和訳すれば「彼は自分の人生の道を間違えたと言い続けている」。この「彼」が将来の自分になるのではないかとちょっと怖くなって、嫌な気分になりました。自分の選択が合ってるかなんて後からしかわからないし、合ってるか間違ってるかも死ぬまで変わりうるとは理解しているつもりなんですけどね。それでも答えを求めたくなってしまうのは若さなんだと思います。



 今回はこの辺で。

*1:日本方言地図 した(舌)https://mmsrv.ninjal.ac.jp/laj_map/data/laj_map/LAJ_117.pdf

*2:祖母に尋ねたところ似たような意見でした。