掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

8月下旬:健気に

 一個人の偏見が多量に含まれます。

 世間で一般的だとされる生活習慣からずれ始めると、脳が良からぬことばかり考え始める。考えない方がずっと楽なことをそれでも考えるのだから、欠陥としか言いようがない。そういう時に至る結論は、自分の存在を許せないとか、自分は間違いを犯したに違いない、でもどこでしくじったかわからないとか、そんなところである。そして寝ると忘れる。寝るまでゴミのような時間を過ごしたことも忘れる。

 塾で教えていると、塾というビジネスが成立する理由を考え始める。やる気がない塾生がいるので、生徒本人よりもどちらかというとその保護者が子供に平均的ないし平均以上の学力を保有することを望んでいることが多いのだと思う。しかしその理由は? 若くて経験に乏しい頭じゃ推測することもできない。もっと勉強しておけばよかった、そんな体験を子供にさせたくない、みたいなところなのだろうか?

 ある程度塾とか学校のような場所で順位付けされることに慣れると、いつしか順位付けしない考え方ができなくなる。自分にないものばかり順位付けして自分がいかに「劣っている」かを錯覚したがる。そして自分に「ないもの」は大抵……目に映り耳で聞こえるような美しさである。顔にはじまり声、話の幅、ファッションセンス、金、人脈の幅まで……きっと答えは「すべてくだらない」のだが、脳が違うと言い張る。

 順位付けするというのは、本来多面的である物の一部分を抜き出し、数字という味気ない記号に性質を落とし込み、そして他の大部分を捨象する、そんなところだろう。考えるのは疲れるので、脳は頭を使わずにものの良し悪しをつけられることを好む。よくわからない占いが蔓延ったり、都市伝説、ネットの出典不明の解説に説得力を見出す人がいるのも、きっとその証拠である。現実は頭で捉え切れるほど単純ではないのに、単純な現実を仮定して話を始めるのである。

 テストでいい点をとることがいいことだとする風潮がある。そして自分の環境の周りには特に多い。ある程度大人になって、それが嘘だと自覚する。テストで点を取って誰かが幸せになったなら良い、それこそ医者になって命を救うとか、弁護士になって裁判で勝つとかすれば良い。そんな高尚なことは無論できない。誰も幸せにできない。

 自己満足を駆動力にして進んでいけるくらい没頭できる何かを見つけたい。つまらないことばかり考えるのはきっと脳が暇をしているから……。

 暇なときSNSを開いて、輝かしい投稿が目に入るたび少し嫌な気持ちになる。Xとインスタグラムに共通して、自分の興味の外にある投稿を押し付けてくる。そんなのやめてしまえばいいのだが、アカウント削除した一日後になんとなく復活させるのがいつもの流れ。いい加減そろそろやめるか……

 くだらないことを考えようとも、自分の容姿は変わらないし、命は続く。健気に、素朴に、愚直に、生きていきます。そんな宣言をしたところで終わりにします。