掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

8月上旬:吝嗇って、書けない

ケチ

 いくつか前の記事で、家計簿をつけ始めたと書いた覚えがある。それ以降、自分の行動が吝嗇家、もっとわかりやすく言えばケチの部類に突入してきている実感がある。八月四日付の朝日新聞朝刊の『折々のことば』に、以下の引用があった。

吝嗇家……の目には金が何か他のものを得るための手段ではなく目的そのもの、否、権力の純粋な形と映る

 本文でこれはウンベルト・ガリンベルディ(イタリアの思想家・精神分析学者らしい)の『七つの大罪と新しい悪徳』より引用したと紹介されている(引用の引用でややまどろっこしい)。要するに金を消費することは、物を買うことができるという自身の「可能性」を失わせることに他ならない、だから吝嗇家はそれを使うことができないのだという論旨だった。なるほど的を得ている。

 もともと使うための金を貯め始めたはずなのに、振り返るといつの間にかその金を使えなくなっている。不確実性を嫌って、何にでも使える金銭を、金銭のままで持ちたがる。貯めたお金はそのうち何かに使います……そのうち!

情弱

 パソコンを使っていろんなことが出来たらいいなとは常々思う。Qiitaとかで見てもいくらでも理解の及ばない記事が出てくる。YouTubeで何も考えずに動画を見ていると、こういう類の編集の技術はどのように習得するのだろうかと不思議に思う。

 個人的に何か学ぶ時に、先の展望が見えていないというかその問題が身近に感じられない時に「よくわからない」と思うことが多い気がする。情報系の授業でプロトコルどうこうとか誤り訂正の話をされた時も、情報の通信がそういう仕組みで行われているのはわかった、しかし結局それをどうやって実感すれば良いのだ? と思った覚えがある。

 コンソールの画面を見てこれはここがうまく行っていないから動かないのだ、だからここをこうすればうまくいく、というのが実感を持ってわかれば良いのだが、それを習得するには根気がいることを知っているから忌避している。Qiitaでそれっぽい記事を探し出して、そこにあるコマンドをコピペして、動いたからヨシ! みたいなのがいつもの流れである。

 塾で数学を教えるときに、定理を使うにあたってその「気持ち」を理解しましょうと教えることが多い。ただ単に結果を使うというわけではなくて、その定理で何を求めようとしているとか、その定理はどこから由来するものだとか。でも大体が糠に釘で、言ったことなど一週間後には忘れている。自分なりのやり方を積み重ねてこの年になったのだから、それも無理はない。

 適当な記述問題の解答をさせると、その人の思考過程がどの程度整っているかを垣間見ることができる。のだが、大体のケースでスパゲッティコードである。式の羅列だけとか、「よって」の連発とか、それはもうさまざまなタイプがある。これにテコ入れしようとしても、本人としてはこれでマルがもらえるんだからいいじゃないかみたいなことを思っていて、何を言おうと根本的な解決にはならない。一番必要なのは本人の意識である。

 こうして教えている中、パソコンを何も考えずに使って、環境を構築したいと思ってもよくわからないから、適当にググって出てきたサイトにあるコマンドをその内容も理解せずに使っていい気になっている自分が顔を出す。自分なりの向上心がないなら結局何を勉強しても一ヶ月後には忘れている。自分が塾の生徒を批判する筋合いはない。興味がないという点ではまったく同じである。



 今回はこの辺で。