掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

10月下旬:理解

 自分は結局何も理解していなくて、ただ授業のレベルが上がっていくことを自分の理解の幅が広がったことと錯覚しているのではないかと思った。数学の授業は大抵こういう定理があります、その証明はこうです、の繰り返しだから、授業で説明された証明に論理的な欠陥がないことを確認しただけで「わかった」と感じている気がする。なんでこんな問題を考えているのか、そもそもこの発想はどこから来たのかとか、その論理の裏にあることに気を配らないと理解したとは言えないと思う。

 例えばチェスのプロブレムをよく解けるようになったとしても、オープニングがどんなコンセプトで指されているのかとか、あるいは駒をどのようなマスに配置するのか、ポーンの配置をどうするのかとか、そういう「大局観的な」知識がないとチェスは強くならない(個人的にチェスが強くないから詳しいところはわからないが)。授業の中では、どちらかというと論理的な抜けがないかとかの「局所的な」理解を提供するだけして、自分が今どういう立ち位置にいて、どこを目的地にしているのかのような、「大域的な」情報についてはあまり触れられないことが多い気がする。

 院試の体験記のブログで「4年の時にはこういう分野に興味がありました」という記述をよく見かけるのだが、そのたびに不安になる。4年次になった自分が志望したい分野を自信を持って選べる気がしない。これまで短絡的な論理ばかりを気にして数学的な話をした気分になってきたから、自分がやったことのある分野を何も考えずに志望して、後からなんか違う、ってなりそう。とりあえずできることを突き詰めて、自分がやりたかったのはこんなことじゃなかったと後悔するのが筋。

 周りに流されまくって何も考えずに行動したツケがもうじき回ってくる。自分が理解できる事柄を、自分が興味のある事柄と混同しないようにしないと。