掃き溜めの落書き

赴くままの連辞

2024年の目標

 忘れる前に記録をしておく。上から順に比較的本気。

映画年間100本

 昨年は文化資本の貧弱さを散々に思い知った。文化資本を強制的に接種することが必要な気がするので、これを機に映画をちゃんと見ようと思っている。あまり使えていなかったNetflixの有効活用という点でも頑張りたい。

諸外国語の勉強

 多分自分自身言語が好きなので、いろんな言語に興味を持ちがちである。それはいいことなのだが、話せたらいいな〜と思うだけ思って何もしない。これは良くないので、今年は色々ちゃんとしたい。少しでもやりたくなった言語(のうちちゃんとやってないもの)を列挙するとドイツ語、スペイン語、ロシア語、韓国語、スウェーデン語。多分全部は無理なので、3つやったら合格点ということにしておく。

美術館に行く

 これも文化資本向上を目的にしている。休みの日に早く起きたくない人間なので、年を通して最低一回を目標にしておく。目標は低いに越したことはない。  国立西洋美術館のWebページを見たところ、10月くらいからモネ展をやるっぽいので、それは行きたい。

フランス語の勉強

 フランス語をちゃんと勉強したい。ちゃんとというのは二つ上の言語よりももっと真面目にという意味で、ある程度それなりに話せる・聞けるくらいにはなりたい。高望みなことを承知で、ざっくりとできたらいいな〜と思っておく。リソースはいくらでもあるので、それを継続することが目標。

劇を観に行く

 昨年観た劇が良かったので、もっと観たい。観たいと思う劇が見つかれば良いのだが、見つからなかったらそれはそれでよしとする。



 あとは病まずに色々やれたらいいなと思います。一年がんばります。

12月下旬:程よいゆとりを

 何もしないうちに一年が終わろうとしている。一年の最初には大抵目標を立てたりするのに、一年もしたら目標を立てたことも忘れて、しなかったことだけ後悔するのが常。どんな目標を立てたか全く覚えていないので、とりあえずの反省をしようと思う。

 なんか色々高望みだけしていた一年だったように思う。高望みは自己肯定感が下がるという効果しかないので、詰まるところ自己肯定感と戦っていた。一番有用な結論は今の所「別のことで気を逸らす」ということ! これが一番大事!

 別にすべきことがあるならそれをする、ゲームをする、寝てみる、運動してみる、呼吸することに意識を逸らす、誰かと話してみる、など。もうなんでもいい。答えがない問いについて考えている時間が一番無駄なので、とりあえず何かしてみる。行動してみる。考えている時間はエネルギーを使っているので、無駄に疲れる。何か別のことをして、エネルギーを効率的に使うべし。

 とはいえ、高望みすることも考えることも度が過ぎると疲れてしまうだけで、何も悪いことではない。考えることから逃げ続けるとそれはそれで別の壁に詰まってしまうので、シリアスになりすぎず、程よいゆとりを持って生活していってほしい。来年の私。

12月上旬:観劇

 生まれてこの方初めて意識的に劇というものを観た。思っていたよりずっと良かった。

 この世界には触れていない芸術がいっぱいあるのではと考えていたタイミングで、好きな俳優が舞台をやるという情報が公開されて、渡りに船だと思って申し込んだ。予約開始日に起床失敗して席が端っこの方になってしまったのは少し残念だった。

 始まってからは、音響の圧力と実際に動いている人に圧倒されっぱなしだった。映画とは一味違う場面の切り替え方も新鮮で、本当に来て良かったと思えた。後悔しているのは自分の視力を過信したことで、舞台上の人の表情が全く見えない! 双眼鏡を持っていくというのは聞いたことがあったが先人の教えは当てにすべきだと痛感した。次からは間違えないようにしよう。

 前から自分の文化資本の貧しさを懸念していたが、本当にそうだと感じた。二ヶ月近く見てないネトフリも、少しずつ再開したい。

11月下旬:ショー

 漫画とかアニメの設定で、サーカスから逃げてきた動物が登場することがある。遊んでいたところをハンターに捕獲されてサーカス団に加入させられて、調教師がおっかないとかサーカスの激務に耐えられないとかの理由で逃げ出してきたライオンなどの動物である。物語に登場した後サーカスに戻されるのかあるいは主人公のもとで別の生活を営むのかはわからないが、いずれにせよそういう設定が大衆に受け入れられているのは事実だろう。

 イルカとアシカのショーを見る機会があった。飼育員さんと見事な連携を見せてくれて、イルカのジャンプの迫力も凄まじかったし、アシカの鼻先のバランス能力は(初めてちゃんと見た気がする)目を見張るものであった。ショーの終わりにイルカが水槽のこちら側に来てくれて可愛かった。イルカの大きさにもびっくりした。

 ショーは面白かったのだが、後になってふと、あそこにいる動物はこのショーを楽しんでいるのだろうかと疑問に思った。飼育員さんとの掛け合いを心なしか楽しんでいるように見えるのは、自分が人間である影響を多かれ少なかれ受けているだろうし、動物と相互理解的に会話するツールもないから実際のところは推し量ることもできない。よくて人間風情の牽強付会である。

 動物園ないし水族館の動物をどういう気持ちで見ればいいのかわからなくなってしまった。小さいときは狭い場所に閉じ込められてかわいそうとか思っていたとは思うが、今考えるとそれも結局人間基準の価値観を押し付けているだけだし、かといって彼らが満足していると考えるのもエゴだろう。まずこういうことを考えること自体がエゴなのかもしれない。

11月上旬:せっかち

 なんやかんやあり遅くなってしまった。

せっかち

 将来の予定とか結果とかを早く求めようとしてしまう自分の悪い癖に気づいた。数学に関していえば何を専攻として選ぶかということで、また学部段階でそんな確固な意志なんてあるはずがないのに、自分が遅れをとっているのではないかと心配で、なんとなく教員のページを眺めてしまう。大学院どこに行くのかというとても時期尚早なことばかり考えて、早く行動を起こさないといけないと焦る。自分の選ぼうとしている道が正しい道であるかとか、今の自分の行動は正しいかみたいなことを、過剰に確認しながら(あるいは確認したふりをしながら)でないと生きていけない面倒な人間である。

 もっと日常的なことで言うと、(こちらの予定を勘案せずに)急に(移動を伴う)予定をつくられることがとても嫌いである。せっかちなので概ね半日先くらいまでは基本的にこういうことをしようかなというスケジュールがなんとなく決まっている。それなのにそれを無視して一方的にどこどこへ行こうと言われると全てを投げ飛ばしたくなる。駅から帰る時に何か買ってこい、くらいだったら全然いいのだが、家で課題するか〜と思っている時に何か買ってきて、と言うのは許せない。もう個人的な予定は決まっているので、あんまり無理を言わないでほしい*1と思う。

 金曜日の授業終わり、TGIFの四文字が頭を回りながらハッピーな気持ちで帰宅していたところで突如ケータイが鳴り、今夜塾に出られないかと聞かれた。断る真っ当な理由がなかったので最低な気分になりながら渋々出た。後になって聞いたのは担当者が体調不良で欠席を連絡したのが勤務開始時刻の一時間前だったらしい。自分以外の人間はさほど気にしていないようだったが、個人的にはもっと早く連絡できなかったか不思議でしょうがなかった。連絡してきた本人は本当に何も言ってこないので、むしろこれを気にする自分の方がおかしいのではないかとも感じ始めた。後になってからそのことに関して張本人から一言触れられたが、もうその頃には色々飲み込んでいたし、なんで今になって蒸し返すのかと思った。その上さらに話し方が偉い人に一言触れておけと指示されて今私喋ってますよという話し方だったから余計に不愉快だった。

 この話で自分のせっかちポイントは二つあり、一つ目は欠勤連絡が遅いことに腹が立ったことで、もう一つは(悪いことをしたと思ったのなら)より早く何か一言あってもよかったのではないか*2と思ったことである。ここまで書いて、中年以降になったときに若い人から煙たがられる人間になること間違いなしだなと思った。

*1:自分がたまに無理を言ってしまっているのは百も承知だけど、できるだけ避けているつもり。

*2:もしくは 悪いことをしたなんて微塵も思っていなかったのならむしろ何も言わないでほしかった。

10月下旬:理解

 自分は結局何も理解していなくて、ただ授業のレベルが上がっていくことを自分の理解の幅が広がったことと錯覚しているのではないかと思った。数学の授業は大抵こういう定理があります、その証明はこうです、の繰り返しだから、授業で説明された証明に論理的な欠陥がないことを確認しただけで「わかった」と感じている気がする。なんでこんな問題を考えているのか、そもそもこの発想はどこから来たのかとか、その論理の裏にあることに気を配らないと理解したとは言えないと思う。

 例えばチェスのプロブレムをよく解けるようになったとしても、オープニングがどんなコンセプトで指されているのかとか、あるいは駒をどのようなマスに配置するのか、ポーンの配置をどうするのかとか、そういう「大局観的な」知識がないとチェスは強くならない(個人的にチェスが強くないから詳しいところはわからないが)。授業の中では、どちらかというと論理的な抜けがないかとかの「局所的な」理解を提供するだけして、自分が今どういう立ち位置にいて、どこを目的地にしているのかのような、「大域的な」情報についてはあまり触れられないことが多い気がする。

 院試の体験記のブログで「4年の時にはこういう分野に興味がありました」という記述をよく見かけるのだが、そのたびに不安になる。4年次になった自分が志望したい分野を自信を持って選べる気がしない。これまで短絡的な論理ばかりを気にして数学的な話をした気分になってきたから、自分がやったことのある分野を何も考えずに志望して、後からなんか違う、ってなりそう。とりあえずできることを突き詰めて、自分がやりたかったのはこんなことじゃなかったと後悔するのが筋。

 周りに流されまくって何も考えずに行動したツケがもうじき回ってくる。自分が理解できる事柄を、自分が興味のある事柄と混同しないようにしないと。

どうでもいいことが気になってしまう

 何かを新しく好きになると、当たり前だが新しく知識を得るわけで、これまであまり気にしていなかった違いというものが気になり始める。鳥の種類でも、ギターのメーカーでも、それはいくらでもある。問題なのは全く本質でない情報がノイズになって、本編が頭に入らなくなることである。

 ドラマとかでよくある「教授」的な立ち位置の登場人物の、背景にある黒板に書いてある数式がどういう数式なのかとかが気になり始めると、沼である。たまに高校数学でやるようなことがいっぱい羅列されていることもあるし、一方ある程度ちゃんとしたことが書いてある場合もあって、玉石混交で面白い。その数式ばかり見ている間に大抵はある程度話の概要が説明されるのに、それを聞いていなくてたまに少し困る。

 『名探偵コナン』の新刊(104巻)が出た。チェスの描写が結構多いのだが、その盤面のa1が黒でないことが非常に気がかりである。そもそもチェスボードそのものに大抵マスの番地が書いてあるから、現実問題それ通りにおけば絶対にa1は黒マスになるようにできている。チェスをあまりやらない人がそのことを知らないのは仕方ないと思う。し、気にならない人が大半だとも思うのでこの誤植はほとんど問題がない。

 とはいえ多分チェスを指す人にとっては気になる誤植でもあるはず。大多数の論理としてはむしろこちらが気にしすぎだということになるのだと思う。それで本編を正面から鑑賞できないのは作者にも悪い。でも、モノを好きになるというのは「ここだけは譲れない」ような場所を少しずつ大きくしていくことだとも思う。

 自分の論理を持ちながらも、大衆の論理を否定することもなく、モノを好きになりたいと思いました。